東神戸教会
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メッセージ   2006年のメッセージ


『 信じる心がぼくらを支える 』    マタイによる福音書14:22−33   (1月22日)

昨年の1月17日、震災からまる10年の日に、六甲山に見事な虹が出た。
ノアの箱舟の物語の中で、洪水の試練をくぐり抜けた人々に対する神の祝福のしるしとして、
空に虹がかかったことが記されている。
10周年の日の見事な虹は、この街に生きる人々への神さまからの祝福のように感じた。
「神が共におられる」― そう信じるだけで希望が沸いてくる思いがした。

聖書はガリラヤ湖畔で起こった不思議な出来事を伝えている。
イエスは弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ渡るように命じられ、ご自身は祈るために山に登られた。
弟子たちは漕ぎ出したが、逆風に悩まされてなかなか進むことができなかった。
すると夜明け前、弟子たちの舟のそばを、
イエスがまるで幽霊のように湖の上を歩いて行かれたというのだ。
「忍者じゃあるまいし、いったいどうやって?」
超常現象としてこの出来事をとらえようとすると、大切なメッセージを見誤ってしまう。
これはひとつの喩え話として受けとめればよいのではないか。

「舟」とは、ひとりひとりの人間のこと、湖はそれぞれの人生のこと。
そして逆風とは人生の試練の時のこと。
ひとりではとても進めないように思えるその道のりも、共に歩んで下さるイエスを信じるならば、
やがて向こう岸に着けるだろう。そういうことが言われているのではないだろうか

ペトロの姿に注目したい。そばを通り過ぎるイエスを認めたペトロが
「わたしもそちらに行かせて下さい!」と夢中に進み出ると、彼もまた湖の上を歩いて行けた。
ところが途中で風に怯えて疑った途端、沈みかけたというのだ。
自転車こぎの練習を始めたこどもが、支えてくれる大人の手を信じる時にはうまくこげるのに、
疑うとバランスを崩す姿に似ている。
しかしそんな子どもにも、やがて支える手を信じながらも自分の足でこげるようになる日がやって来る。

昨年の1/17の風景から、ひとつの歌を作った。
「虹の約束、不思議な導き、信じる心が僕らを支える」という歌詞だ。
「不思議な導き」を願っても、奇跡は起こらないかも知れない。
また、輝く虹が私たちに何かをしてくれるワケでもない。
しかし空にかかった虹を見て心をときめかせ、その背後に神さまの支えがあることを「信じる」。
その「信じる心」が私たちを支えてくれる。




『 手を洗うより、心を洗おう 』
  マタイによる福音書15:1−20  (1月29日)

風邪の季節である。予防には「うがい・手洗い」が一番と言われている。
そのように用心することは悪いことではないかも知れないが、
その時抱く感情は、よくよく気をつけないと人間関係を断ち切る方向に作用してしまうことがある。

著名なオペラ歌手が、同居している母親が風邪をひいて熱を出したときに、
「うつると困るのでホテルに泊まってちょうだい」と家から追い出したという話を聞いた。
「仕事だから仕方がない」とも言えるかも知れないが、何とも考えさせられる話である。
昔から病気を理由に起こる差別があるが、
病気からわが身を守ろうとする意識が、相手の人格や存在をも否定することにつながるならば、
それは大きな問題である。

イエスの時代の人々、特にイスラエル選民意識の強いエリートたちは、食事の前に手を洗い、
市場などから帰ったときは念入りに身を清めたという。
ユダヤ人エリートである彼らから見たときに、
異邦人、罪人(律法を遵守しない人)、地の民(貧しい農民)たちは「汚れた人々」であり、
手を洗わずに食事をしたならば、その汚れが「うつる」と考えられていたからだ。

しかしイエスや弟子たちは、そのような昔から言われ続けてきた作法を守らず、
手を洗うことなく食事をした。
それを見たファリサイ派の人々が「なぜあなたがたは、大切な言い伝えを守らないのか」と批判した。
イエスは、「口から入るものが人を汚すのではない。口から出るものが人を汚すのだ」と言われた。
誰かの「汚れ」が口から入ってきて人を悪くするのではなく、
むしろそうやって人のことを「汚れている」と見下す意識こそが人を悪くする、ということだ。

別のところでイエスは、彼らファリサイ派の人々のことを
「外側は正しいように見せながら、内側は偽善と不法で満ちている」(マタイ23:28)と批判された。
「外見を整えるより、心を磨きなさい」それがイエスの教えである。

外見や身なりを整えることに気を配りがちな私たち。
それも悪いことではない。
でも、手を洗うよりも、心を洗うことを大切にしたい。





『 垣根を越えて 』    マタイによる福音書15:21−28(2月12日)

人間は、「関わり」の中に生きる存在である。
様々な人との関わりが心の豊かさを生み出し、
生きる喜びの源となる ― それが人間らしい生命の営みである。

しかし一方で、それが大切なことだからこそ、時にそこから逃れたくなる時もある。
「仕事も家族も忘れて、のんびりしたい」と思うことが誰にでもあるが、
決して「仕事・家族などどうでもいい」と思っているワケではない。
大事に思うからこそ、時に離れたくもなるのだろう。

ある時イエスは、ユダヤから遠く離れたフェニキア地方に行かれた。
なぜそんなに遠くまで行かれたのか?
それはこれまで続けてこられた濃密な人々との「関わり」から、
しばし逃れて休みたいということなのではないだろうか。
人々の重荷を一心に受けとめ、関わりを持ち続けられたイエス。
時には敵対者から激しいプレッシャーを与えられることもあった。
イエスさまにだって、休みは必要だ。

そこにひとりの女性が現れて、娘の病気を癒して欲しいと願い出た。
彼女は「異邦人」であった。
マタイには、「私はイスラエルの失われた羊以外にはつかわされていない」という
イエスの言葉が記されている。
「異邦人の願いは聞けない」という風に読める。
イエスは「異邦人差別」をされたのだろうか?

しかしこの「異邦人発言」はマルコにはない。
「まず子どもたちに十分食べさせるべきである。
子どもたちのパンを子犬にやるのはよくない」と、
謎めいた言葉のみが語られている。
「子どもたち(私たち)に、まずパン(休息)を...。」そう読むこともできる。
イエスさまだって、時には関わりから離れて、休みたかったのではないか。

けれども、イエスが垣根を設けられたことには違いがない。
するとその女性はどうしたか?
「主よ、ごもっともです。
でも子犬も食卓からこぼれ落ちるパンくずはいただきます」と、
機転(ウィット)を利かせて応答した。
その言葉に感心して、イエスは「あなたの信仰は立派だ」と褒められ、
関わりを持ち、癒しを行われた。

イエスから垣根を越えたのではない。
その女性からの語りかけ、すなわち隣人からの働きかけが、
垣根を越える歩みを引き出したのである。

私たちの心は、時に他者との間に垣根を設けようとする。
その垣根を越えさせてくれるもの、
それが「隣人からの声」である。




『 人の心は金で買えるか? 』   創世記11:1−8(2月19日)

「人の心も金で買える」と豪語したIT企業の若社長が逮捕された。
すると周囲の人々が次々に彼を見限り始めた。
その様子を見て、寒々したこの国の現実を思わされる。
彼のそばにひとりでいい、
「金がなくても私はあなたの友だちだ」と言って留まる人がいてほしいと思う。

「天に届く塔を作り、神に近づきその位を手に入れよう」
バベルの塔を建てた人々はそう叫んだ。
自分に与えられた力を過信し、
自らの欲望が満たされることのみを求めて生きようとした。
それはかの若社長と同じメンタリティである。
しかし、私たちはこれらの人々のことを笑えるか?

お金に心を奪われてしまう部分、自分の欲望を求める思い、
自分の全能感に酔いしれてしまう心を、私たちもまた持っている。
あの時代に生きていたなら、
私たちもまたバベルの塔を築いたひとりだったのではないだろうか。

私たちの生活は、もはやお金なしには成り立たない。
そんな中で生きるためにお金を得ようとすること、
それ自体が悪いわけではないし、
神がそれを禁じておられるわけでもないだろう。

問題は、お金を手に入れることによって、
何でも手に入るように思えてくること、
そしてその結果自分の欲望を中心に生きるようになり、
自分が神のようになってしまうことである。

聖書の中にはイエスによって批判される「お金持ち」の姿があるが、
それは彼らが財産を持っていたからではない。
その財産を「自分のためだけに用いようとした」強欲な姿が批判されるのだ。

しかし私たちの心の中には、
自分の働きかけが人のために何かの役に立つこと ― それ自体を喜ぶ心も与えられている。
自分の能力や財産というものを、
自分だけでなく隣人の幸せを作るために用いようとすること。
そこに与えられる喜び、芽生える信頼感や感謝。
それは何にも代え難いものだ。
その心を見出す時、バベルの塔が祝福の祭壇と変えられる。




『 証拠がなければ信じないのか? 』 マタイによる福音書16:1−12(3月12日)

イエスのもとにやってきた人たちは、
イエスの“癒しの奇跡”によって病を癒され、
また“パンの奇跡”によって空腹を満たされた。
しかし彼らがイエスを救い主と信じたのは、
イエスがそれらの不思議な力を持っていたからではないだろう。

病気ゆえに社会からはじかれていた人々、
貧しくて空腹を抱えざるを得ない人々を、
イエスは「大切なひとり」として尊重し受け入れられた。
その振る舞いに対する信頼という、「見えないつながり」こそが、
イエスと民衆との絆であった。

しかし、ファリサイ派・サドカイ派たちは、
「あのようなみすぼらしい人物が救い主であるなど、
とても認められない!」という思いでイエスを見ていた。
そこで彼らはイエスのもとに来て問う。
「もしあなたが救い主なら、天からのしるしを見せてみよ」。

ここに2種類の人間が存在する。
片方は、目に見えるもの(しるし)によって
証拠付けられるものだけを信じようとする人々(ファリサイ派、サドカイ派)。
もう一方には、目に見えないもの(信頼、誠意、矜持、愛)をこそ大切に受けとめ、
それを信じようとする人々(イエスに従った貧しい民衆たち)。
はたして、私たちはどちらに属する人間か?

「近代」という時代は、証拠付けられるものを基にして論理を組み立ててきた。
科学、社会学、経済学等々、「目に見えるしるし」を基本にして発展し、
価値観を作り出してきた。
しかし「証拠がなければ信じない」という考えだけで生きる生き方で、
人は本当に幸せになれるのだろうか?

アメリカ映画『コンタクト』の中で、
神の存在を否定し「私は証拠のあるものしか信じない。」と断言する天文学者の女性に、
恋人である宗教者が語りかける。
「君は亡くなったお父さんを愛していたか?」「もちろんよ!」「じゃあ、その証拠は?」

「本当に大切なものは目には見えない。心で見なくては。」
            (サン・テグジュペリ『星の王子さま』より)。
見えないけど確かに存在する「大切なもの」を信じる信仰を目指したい。




『あなたの上に教会を建てよう』 マタイによる福音書16:1−12(3月19日)

「あなたの上に私の教会を建てよう」。
イエスがペトロに語ったとされる言葉である。
これは他の福音書には記されておらず、
マタイの付記であるというのが聖書学では定説となっている。
しかしこの言葉をもとにして、カトリック教会は教皇制度を作り上げ、
その結果、中世において教会は絶大な権威を持つに至った。

あまりに強硬になりすぎた教会の行き過ぎや誤ちに対し、
これを批判したのが宗教改革である。
冒頭の聖書の言葉が、教会の権威付けに用いられた時、
そこにひとつの過ちが生まれてしまった。
宗教改革者たち(プロテスタント)は命を賭して教会の権威主義を糺していった。

しかしマタイ自身は、決して教会を権威付けるためにこの言葉を記したのではない。
マタイの時代の教会は、権威も権力もない、小さな吹けば飛ぶような弱小グループだった。
度重なる迫害を受ける苦しみのただ中で、
それでも信仰を受け継ごうとする仲間たちへの励ましのメッセージとして、
この言葉を記したのであろう。

マタイが「教会」という言葉を用いるとき、
そこでイメージされているのは建物でも組織でも教団としての教会でもなく、
それは「信じる人々の群れ」という意味である。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもいる」(マタイ18:20)。
たとえ人数は少なくても、主を信じる人々の存在こそが「教会」なのである。

「あなたの上に教会を建てよう」。
それはペトロひとりだけに向けられた言葉ではなく、
同時代に生きた信仰者たちに向けられた言葉だろう。
「あなたが教会だ。わたしが教会だ。
今は小さな弱い群れに過ぎなくても、誇りを持とうではないか!」。

この言葉は、現代の私たちにも
大切なメッセージを語りかけてくれるのではないだろうか。




『イエスさまの十字架を見ていると 』   マタイによる福音書16:21−28(3月26日)

イースターを迎える準備のときであるレント(受難節)の季節は、
イエス・キリストの十字架の苦難の道を想い起こす時とされている。
しかしそこで大切なのは、「イエスの苦しみそのもの」に目を向けることよりも、
「なぜその苦しみがあったのか?どうしてそれがなければならなかったのか?」
そういう問いを持ち続けることだと思う。
避けようと思えば避けられたにも関わらず、イエスは十字架に向かって進んでいかれた。
その生涯を見つめること、そしてそのまなざしを自分に向け、
「私はいったいどう生きるのか」を問うことこそ、大切なことなのではないか。

イエスが、自分の行く末に十字架の苦難が待ち受けるのを予告された言葉を聞いて、
ペトロはそれをいさめ始めたと記されている。
「救い主は栄光に輝くメシアであるはずだ」...それがペトロの思いだったのだろう。
しかしそれは「人間の思い・サタンの思いだ」とイエスは言われる。
そしてそれに続いてこう言われた。
「私に従いたいなら、自分の十字架を負うて従ってきなさい」。


こどもさんびかに「イエスさまの十字架を見ていると」という歌がある。

  ♪ イエスさまの十字架を見ていると
    「いやなことでもやることがあるよ」って
    言われているみたいだ ♪        (「こどもさんびか」84)

この歌には、十字架と向き合う信仰の核心が表されているように思う。

世の中には、人々のために欠かせない大切な働きではあるが、
誰もがそれを負いたがらない、「いやなこと」がある。
誰かがそれを負わねばならないのならば、
自分がそれを進んで負おうとする意志。
それを極限の姿で見せてくれたのがイエスの十字架である。

十字架とは、自分の満足だけを求めずに、
人々の幸せを願いつつ自分はしんどさを引き受ける、
そんな意志のことだと言えるかも知れない。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」
                                     (ヨハネ15:13)。
そう教えられた通りに、イエスは友(民衆)の救いのために命を捨てられた。
私たちには、命まで捨てることはできないだろう。
しかし隣人のために自分の力や時間や賜物を
差し出すことぐらいはできるのではないだろうか。
しかしそれくらいのことすら躊躇してしまう、私たちの心の弱さがある。

心の中で「やめとけ!損するだけだぞ...」
そんな囁きが聞こえてくるかも知れない。
しかしその己の弱さを乗り越えて、
自分の十字架を背負って歩み続けるところにこそ、
豊かな人生があることをイエスは示してくれた。
そのイエスに従うところにこそ、
本当の生きる喜びがあることを信じたい。




『垂直と水平の交わるところ』     マタイによる福音書26:36−46(4月9日)

受難週に入る棕櫚の主日。
聖書の箇所はイエス・キリストの十字架の苦難を前にした、
「ゲッセマネの祈り」の場面である。
ルカ福音書によると、イエスは血の汗を滴らせて祈られたという。

このイエスの姿は、
すべてを知り尽くし強い意志をもって運命を受け入れる「神の子」としての姿ではなく、
恐れや不安や悲しみを心いっぱい感じている「人の子」としての姿である。

ここでは二つのことが祈られている。
「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」。
本当のことを言えば、苦しみ遭いたくない。恐れもだえるイエスの心情が表れている。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、みこころのままに」
私の願いではなく、神さまの御心が行なわれますように。
即ち、人々の救いへの道を開くために、十字架の苦しみが必要ならば、
その道を進ませて下さい、ということだ。

人間、誰しも自分の人生が平安でありたい、
愉快で幸せに満ちたものであって欲しいという願いを持っている。
このあたりまえの願い、それは「水平の思い」である。
しかし時に、そのみんなの願いを実現するために、
誰かが痛みや苦労を負わねばならないことがある。

『白バラの祈り』という映画を観た。
第2次世界大戦中のドイツでナチスへの抵抗運動によって逮捕され、
たった1回の公判によって5日後に処刑された、
「白バラ」という名の、実在したグループのことを取り上げた映画である。
命乞いをして、生き延びようと思えばできたのに、
良心に従ってその道を拒み、処刑台の露と消えた3人のレジスタンスたち。
自分たちの信念に命を懸けた若者の姿が、淡々と描かれていた。

映画の中で、取調官の目の前では毅然と政府への協力を拒み、
取調官も驚くほど堂々と振舞っていた主人公の女性が、
ひとり監獄の部屋に戻ると、恐れと恐怖で泣きながら神に祈るシーンがあった。
「神さま、私をお助け下さい。どうぞこの命をお守り下さい」。
その姿は、ゲッセマネのイエス・キリストの姿と重なり合うものだった。

「なぜ自分だけがそんな苦しみを負わねばならないのか」
そんなつぶやきと共に沸き起こる理不尽な思い。
それを引き受けるためには、水平に対するもうひとつの思い・「垂直の思い」が必要だ。
「神さまがそのことを求めておられる」
そのような信仰に押し出されて、苦難の道を歩む人の存在が、
人類に多くの幸せをもたらせてきた歴史がある。

水平と垂直の交わるところ、そこにあるのが十字架だ。




『イエスさまに出会う場所 』  マルコによる福音書16:1−7(4月16日・CS合同)

イエスさまが十字架にかけられた後、
人々はイエスさまのなきがらをお墓に納め、とても辛い一日を過ごしました。
そして安息日が明けた日曜日の朝、イエスさまに従っていた女性たちがお墓に出かけました。
悲しい悲しい思いを抱えながら。

なぜ彼女たちはお墓に出かけたのでしょう?
それは「死んでしまった人に出会える場所は、お墓しかない」と思っていたからです。
当然ですね。
今でも多くの人たちが「お墓参り」をします。
そうすることで、亡くなった人を思い出し、その人と出会えるような気持ちになるからです。

ところが、女性たちがお墓に着くと、中は空っぽでイエスさまのからだはありませんでした。
代わりにひとりの若者が立っていて、「イエスはよみがってここにはおられない。」と言いました。
ルカによる福音書には「なぜ生きた人を、死んだ者の中に探すのか?」という言葉も書かれています。
イエスさまに出会える場所、それは「お墓」なのでしょうか?
「そうではないよ」と聖書は伝えています。

突然ですが、ぼくのお母さんの話をします。
ぼくのお母さんは、ぼくが3歳の時に病気で亡くなりました。
お母さんのことはあんまり覚えていないのですが
「ぼくの命を生んでくれた大切な人には、もう会えないんだ」という感覚だけは、
ずーっと心の中に残っていました。
お墓参りに行っても、お母さんに会えるような気持ちにはなりませんでした。
ところが大人になって、お母さんに会える瞬間があることに気付きました。

お母さんは歌が好きで、その勉強を一生懸命にしていた人だったそうです。
そのお母さんが大切にした歌を、ぼくも大切に思って歌うとき、
お母さんに会えるような気がする、と思うようになりました。

ひとりの人が亡くなって、もう会えなくなってしまったと思うと、とても悲しいです。
でも永遠に、絶対に会えないわけじゃない。
その人が大切にしたことを、残された人々が忘れずに、自分たちもそれを大切にしようとするとき、
いつでもその人に会えるのだと思うのです。

イースターの朝、からっぽのお墓で若者は言いました。
「今すぐガリラヤに行きなさい。そこでイエスに会えるだろう。」
ガリラヤとはイエスさまのふるさと、今のパレスチナの一地方のことです。
日本から遠く離れた場所です。
でもそれは、ひとつの場所のことを指しているのではないと思うのです。
イエスさまが大切にしたこと、大切にした教え。
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」
この教えを大切に受け継ぐ人々がいるところ、それが「ガリラヤ」ではないでしょうか。

イエスさまが大切にしたことを、私たちも大切に思って生きるとき、
私たちは、いつでもそこでイエスさまに出会えるのだと思います。

                          (イースター CS合同礼拝メッセージ)




『 それでも朝日はのぼる 』    ヨハネによる福音書20:11−18(4月23日)

人間は、死を悲しむ生き物であり、そこに人間の起源を見る学説もある。
「人の死を悲しむ」という感情は、人間にとって大切な感情である。
しかしその思いがあまりに強すぎると、自分自身の生きるエネルギーを損ねることもある。
それでも人は「死の悲しみ」を引きずってしまう。
それは太古より人が「こころ」という柔らかなものを中心にして時を刻んできた証であろう。

イエス・キリストの十字架の死と向き合った人の中にも、
再び立ち上がれないような大きな嘆きをもってこの事実を受けとめた人がいた。
マグダラのマリアはイエスの弟子の中でも最もイエスを尊敬し、愛していた女性であった。
深い悲しみを抱えながら墓に向かった彼女に告げられたのは、
イエスの亡骸がなくなってしまったという知らせであり、
それは彼女にとって絶望的な事柄であった。

「もうあの方の亡骸にすら会うことはできないのか...」。
さめざめと泣く彼女に、ひとりの男性が「なぜ泣いているのか」と語りかけた。
マリアはそれがよみがえりのイエスであることを悟った。
「ラボニ(先生)」とマリアは応えた。
するとイエスは言われた。

  「私にすがりつくのはよしなさい。
   私はまだ父のもとに上っていないのだから…。」

この言葉の中に、とても乗り越えられないような悲しみを、
それでも越える道のりへの扉が開かれる思いがする。

それはひと言で言えば、「大いなるものに委ねなさい」ということだ。
「復活を信じる」とは、いつまでも死者にすがりつきその蘇生を願うということではなく、
亡き人の生も死も神さまに委ね、
その人と共に生きた時と同じように「今を生きる」ということなのではないか。

人生で楽しいこと・愉快なことばかりが続けばどんなに嬉しいことだろうかと思う。
しかし実際には、悲しいこと・どうしようもなく辛いことも起きてしまう現実がある。
そのような悲しみの中に身も心も沈み込み、
「もう夜明けはこないのではないか」と思える深い闇の時間もあるかもしれない。

しかしそれでもこの天地の営みは続き、それでも朝日はのぼる。
そのことを信じて「大いなるもの」に身を委ねることができるとき、
私たちの心の扉が明日に向けて開かれていくのではないだろうか。




『「栄光の山」から下りるとき 』    マタイによる福音書17:1−13(4月30日)

私たち人間は、何らかの形で「栄光」を求めて生きる部分がある。
「栄光」と言っても光り輝く栄光ばかりとは限らない。
昨日よりも今日、今日より明日の自分がより活力に満ち、可能性が開かれていることを願う気持ち。
それが「栄光を求める心」である。

自分の働きに対して十分な報酬を求めたり、
賞賛や良い評価を受けることを心地よく思う感情は誰もが抱くものである。
芸術に打ち込んだり、衣服を着飾ったりするのも、栄光を求める小さな心理の働きであろう。
そのような心を持っているから私たちは努力もするし、それが向上心にもつながると言える。
努力が報われてその「小さな栄光」を手にする人もいることだろう。

しかし、その手にした栄光も、いつまでも続くものではない。
私たちには「栄光の山」から下りねばならない時が必ずやってくる。
そのことは踏まえておいた方がいい。

イエスが弟子たちと共に山に登られたとき、その姿が光り輝き、
モーセとエリヤ(旧約を代表する二人)が現れて語り合ったとされる、「山上の変容」の箇所である。
この「栄光の姿」に感激したペトロは、
「素晴らしい!この記念のために小屋を建てましょう!」と申し出る。
「この栄光にいつまでも浸っていたい」と願うペトロの心がある。

するとにわかに雲がわき起こり、何も見えなくなった。
そしてイエスを指して「これこそ私の愛する子、これに聞け」という神の声が響いた。
雲が晴れてみると、イエスは元の姿に戻り、栄光の名残を残すものは消え去っていた。

そしてイエスは山を下りられる。
栄光の山の上に残ることもできたはずだ。
しかしイエスは山の上で神の栄光に包まれて生きることよりも、
大地に根ざして生きる人々と共に生きる道を進まれた。
イエスは「山の下り方」を知っておられたのだ。

私たちにも、栄光の山から下りる時がやって来る。
端的な形で訪れるのが「死」や「老い」といったものだ。
その期に及んでじたばたするのでなく、山の下り方を学び、下り方を知る。
そしてそのことを「成熟」と呼べるような心を育てることも、私たちの大きな信仰の課題ではないか。




『 信仰があれば... 』     マタイによる福音書17:14−20(5月14日)

「そもそも教会とは何をするところなのか?」
「教会が伝えようとする事柄の、中心にあるメッセージとは何か?」
そんな質問を受けたら、どう答えることができるだろうか?

「生まれてきたことを幸せに感じる」― このひと言に尽きると思う。
人として与えられた命を、みんなが心から喜ぶことができる。
「生まれてきてよかった」―― そう思って生き、そう思って死ねる。
そんな世界を目指してメッセージを語るのが教会ではないか。
そしてそう言える人生を目指す上で、イエス・キリストの言葉は大切な道しるべとなる。

今日の聖書の箇所にも、
そのような「生まれてきたことの喜び」を取り戻した人の物語が記されている。
親によってイエスのもとに連れられてきた、「てんかん」の発作を持つひとりのこども。
今では脳の機能障害とされているてんかんも、
昔は「悪霊に憑りつかれた姿」と信じられ、人々の交わりから遠ざけられていた。
病気の苦しみに加え、社会的な関わりにおいても苦しみを負わされていた。

そのこどもがイエスのもとで癒された出来事が伝えられているが、
「病気が完治した奇跡物語」というよりも、
この親子が「生まれてきたことの喜びを取り戻した物語」と受けとめたい。
イエスが彼らを受け入れられたことによって、
部分的な病気治療ではなく、全人格的な「いやし」がなされたのだ。

ところで、こどもは最初弟子たちのところに連れてこられたのに、
弟子たちは癒せなかったというところに注目したい。
その弟子たちの姿を見てイエスは
「わたしはいつまであなたがたと一緒にいられるだろうか」と嘆かれた。
何でもイエス任せ・人まかせの姿が批判されている。

「どうして私たちには癒せなかったのでしょうか?」と問う弟子たちに、
イエスは「信仰が足りないからだ!」と一喝された。
「生まれてきたことの喜びを伝えるために、あなたがたは本気になっているのか?」
イエスはそのように弟子たちの本気さ加減を問うておられる。

それは私たちの教会に向けられた問いでもあるのではないか。




『 権利と義務、自由と愛 』   マタイによる福音書17:24−27(5月21日)

「今の人々は、権利の主張ばかりで義務を負おうとしない」という声があちこちで聞かれる。
したり顔の人々から「それは戦後の自由教育が間違っていたからだ。
だから戦前のような教育勅語による教育を!」という声も上がっている。
極論だと思うが「権利と義務の兼ね合い」ということについては
考えなければならない課題があると思う。

パウロは、コリントの教会で起こった「偶像に供えた肉を食べることは是か非か」という論争に対して、
「キリストによって自由を得た私にとって、何を食べるかは自由である。
しかし、その自由の行使が誰かをつまずかせることになるなら、私はその肉を食べない。」
そのように記している。(第1コリント8章)

「食べる自由・権利」を持ちながら、それを放棄するというのである。
ここに「自分の自由を、肉に罪をおかさせる機会とせずに、
愛をもって互いに仕える」(ガラテヤ5:14)歩みが示されている。

今日の聖書の箇所。
「あなたがたは神殿への税金を払うつもりがあるのか?」
神殿職員からそう問われた弟子たちは「払います」と答えてしまった。
世間と足並みをそろえることを優先してしまう「弱さ」がここにある。
しかしイエスの発想は逆である。

神殿への献金=神への感謝というものは、「税金」という形で徴収するものではなく、
感謝の気持ちの表れとして「献げるもの」だ。だから何人たりとも神殿税を納める義務はない...
― それがイエスの基本的な考え方である。
マタイのこの箇所ではさらに
「神の子である人物(つまり自分)には、神殿税納入の義務はない」という主張も見て取れる。

しかしイエスは「彼らをつまずかせないようにしよう」と語り、
税金を拒否することもできたのに、これを納めるよう弟子たちに指示を出された。
「湖で釣れた魚から金貨が出てきた」というのは出来すぎたお話である。
しかし弟子の中には漁師だった者もいることから、
「日常の仕事をする中から資金を得て払いなさい」ととらえることもできるであろう。

「私はこのことをする権利を持つ。しかし隣人への配慮からその権利を行使しない」
「私はこのことをする義務を負わない。しかし隣人への配慮から、そのことを行なう」
それがイエス・キリストの示された「倫理的なふるまい」である。




『 子どもらのように ...』   マタイによる福音書18:1−5(5月28日)

「天国では誰が一番偉いのか?」。
この弟子たちの愚問に対し、イエスはひとりの子どもを呼び寄せて
「この子どものようになる人だけが、天の国に入ることができる」と答え、
「この子どもを受け入れる人は、わたしを受け入れるのである」と言われた。

ふたつのことが言われている。
ひとつは「子どもらを受け入れなさい」。
「おとなの価値観」ばかりを主張せず、子どもらを受け入れる余地を残す。
ここでは、子どもは「受け入れるべき対象者」となる。

しかしもうひとつのことは、少し様相が異なる。
「子どもらのようになりなさい」そうイエスは言われる。
ここでは、子どもの存在は「受容すべき対象」ではなく、「目指すべき目標」となる。
イエスは「子どものような生き方」の中に、
神の国への扉が開かれている、と考えておられたようだ。

以前、トルコ大震災の直後に被災地を訪ねた人から写真を見せてもらったことがある。
大人たちがうつむいて絶望的な表情で過ごしているのに対し、
空き地で遊ぶ子どもの瞳は輝いていた。
この写真を撮られた人は言われた。
「どうして子どもはこんなに輝いているのか。
それは子どもたちが『今を生きている』からではないか。」

重松清の短編集『その日の前に』という本の中に、
末期ガンを宣告された女性が最後の思い出作りのため、
かつて暮らしていた懐かしい街を夫と共に訪ねる物語がある。
過去を懐かしみ、未来を憂えつつ過ごしたその小さな旅の最後、
ひとりの少年の「今を生きる姿」がこの夫婦に大きな力を与える場面がある。
瞳を輝かせて「今を生きる」子どもたちの姿は、
どこかで「永遠」につながっているような思いにさせられる。

「おとな」は過去や未来を生きようとする。
しかし私たちが生きることができるのは、『今』という時だけなのだ。




『 小さなひとり、大切なひとり 』     マタイによる福音書18:6−14(6月11日)

「あなたの手があなたをつまづかせるなら、それを切って捨てなさい。」
― そう命じられるイエスは、なんだか大変恐ろしいイメージである。
このような「脅し文句」を語られるイエスを、なかなかイメージすることができない。

英国国教会の礎を築いたトマス・クランマーは、
かつて女王メアリに命じられた「転向証明書」に、我が命惜しさに一度はサインしたことを悔やみ、
最後火刑に処せられるとき「まずこの手が罰せられよ!」と、手を火にかざし続けたという。
自身の罪に対する誠実な態度とも言えるが、もしこの言葉を実現しなければならないとしたら、
私たちはいったい何本の手と足と、いくつの目と口を切り捨てなければならないだろうか。

しかし前後の文脈を見れば、イエスが本当に言おうとされたことは「裁き」ではないことが分かる。
「小さなこどもを受け入れなさい」(5節)
「小さなひとりをつまずかせないように」(6節)
「小さな者が滅びることは、父の御心ではない」(14節)
イエスの言説は、常に「小さなひとりを大切に」というところに向かう。

99匹の羊を野に残して、1匹を捜し求める羊飼いの行動は、
現代の市場原理的な発想から見れば大変「非効率的」な振る舞いである。
「多数の利益のためならば、少数の犠牲もやむを得ない」そういった考え方で、
道路やごみ処理場や原発や基地が一部の人々に押し付けられている現実がある。

しかし「99の利益」のために「1」を捨てられる人は、
次は「98の利益」のために「1」を捨てるだろう。
そうして、その人は結局「数字」を大切にするだけであり、
どのひとりをも大切にしていないことが明らかとなる。

イエスは「小さなひとりをつまずかせるな!」と命じられる。
それはある意味、石臼を首にかけて海に沈められるほどの大きな罪である、と。
この言葉、「脅し文句」としてではなく、やむにやまれぬ「厳しい戒め」と受けとめたい。




『 ストライカーと少年の約束 』   
 
   テサロニケの信徒への手紙 @ 5:12−18(6月25日 こどもの日・CS合同礼拝)

日本と韓国で行なわれた4年前のワールドカップ。
和歌山でキャンプをしたデンマーク代表は、
地元との交流を大切にするとても気持ちの良いチームでした。
その中のトマソンという選手とひとりの少年の出会いの物語です。

サイン会の列に並んでいた少年は、自分の番が回ってくるとトマソンに英語の手紙を渡しました。
「僕は小さい頃の病気で耳が聞こえず、言葉もしゃべれません。
でもサッカーは好きでよく見ます。トマソン選手が好きです。頑張って下さい」。
するとトマソンは「僕にも耳の聞こえない姉がいます。君の苦労は良く分かります。
でも家族も一緒に重荷を背負ってくれていることを忘れないでね」と応えました。
そしてトマソンは少年と約束します。
「僕はこの大会で必ず1点取ります。それは君のためのゴールです。
それを見たら勇気を出して下さいね」。

いよいよ大会が始まりました。トマソン選手は1点どころか、4点も取る大活躍でした。
しかし、決勝トーナメントの1回戦で、デンマークはイングランドに負けてしまいました。

和歌山の人々はデンマーク代表のために「お疲れさまパーティ」を開きました。
その席でトマソン選手は少年と再会しました。
「負けてしまってごめんなさい。」「ううん、点も取ってくれたし、うれしかったです」。
最後にトマソンは言いました。
「神さまは君に試練を与えたけど、君にも必ずゴールを決めるチャンスを神さまはくれるはずです。
そのチャンスを君は逃さず、ちゃんとゴールを決めてください」。

トマソンはサッカー選手としてだけではなく、人間としても素晴らしい人だと思いました。
僕たちも誰か他の人を支えられるような人間になりたいですね。
「気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい」(聖書)。




『 「ふたり」の間に宿る言葉 』   マタイによる福音書18:15−20(7月16日)

サッカーのワールドカップを見ていて、中田のパスとジダンのパスの違いについて考えた。
中田のパスは理想的な鋭いパスだが、味方の選手にも届かないことが多い。
要するに「ひとりよがり」のパスなのだ。
これに対してジダンのパスは、美しい弧を描いて味方選手の足元に柔らかく届く。
中田のパスは仲間に対する「審問」の形態を帯びているが、
ジダンのパスは仲間への「愛」に満ちている。

ふと、私たちの言葉でのやりとりについても同じことが言えるように思った。
言葉を語るとき、相手を詰問しようとしているか、それとも相手に思いを届けようとしているか。
それによってコミュニケーションの方向は正反対に分かれてしまう。
しかし、そもそも人間が言葉を持ったのはなぜだったのか?
それは、相手を問い詰めるためではなく、思いを分かち合うため、
相手を切り捨てるためではなく、つながろうとするためではなかったか。

イエスは「忠告することがあるなら、二人だけのところでしなさい」と言われる。
                     (後半の「教会」云々の部分はマタイの追記)。
みんなの前で忠告をする時、そこではおのずと「正しいこと」が語られる。
しかしその「正しさ」は、しばしば人を追い詰めてしまうことがある。
けれども、ふたりの間の対話においては、「正しさ」という範疇には収まらない事柄、
例えば本音やずるさや弱さといったことが語られる「余地」がある。
その「余地」にこそ、愛が働くことをイエスは知っておられたのではないか。

「正しいことを言う時は、少し控えめにする方がいい。
正しいことを言う時は、相手の心を傷つけやすいものだと気付いている方がいい」
                                       (吉野弘『祝婚歌』)

イエスは、「祈る時はふたりで祈りなさい」とも言われている。
「ひとりの祈り」は祈りの原点であるが、それもまたしばしば「ひとりよがり」となりやすい。
しかし私たちが「ふたり」で祈る時、
そこには自分の「わがまま」を超えた言葉が紡ぎ出されていくことがある。

「ふたりの間に宿る言葉」が私たちを導いてくれる。
大切なのは、自分が相手とつながろうとしてるか、
愛を心に抱いているか、ということだ。




『 赦されているからこそ 』    マタイによる福音書18:21−35(7月30日)

萩本欽一さんの野球チームが、所属するタレントの不祥事で、
解散の危機に追い込まれた一件があった。
マスコミや世間の人々がこのタレントを断罪する中、
欽ちゃんは彼をゆるそうとするようなコメントを語っていた。
それを見て思い出したエピソードがある。

少年時代、家が貧しかった萩本少年は、新聞配達をして家計を支える手伝いをしていた。
ある日どこかの組の親分さんの高級車に自転車をぶつけて傷つけてしまった。
「何しやがるんだ!」と凄む親分さんに、欽ちゃんは必死で謝り、家の事情を話したところ、
親分さんは5秒ほどじーっと黙って「もういいよ、家に帰れよ」と言い、赦してくれた。
それだけでなく、不憫に思って小遣いまでくれたという。

そして欽ちゃんはこう述懐した。
  「人を赦すって難しいよね。
  でもそれは案外簡単なんだということをその親分さんは教えてくれたんですよ。
  それは5秒あればできることだよ、ってね」。
自分がかつて赦された喜びを知るからこそ、
欽ちゃんも人を赦そうとできる心を持てたのだろうと思う。

私たちの人生において「互いに赦し合う」ということは大切な、そして難しいテーマである。
私たちの心の中には、自分を絶対化し、人を赦そうとしない性根のようなものが存在している。

ある日ペトロがイエスに尋ねた。
「兄弟が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきですか?7回までですか?」
するとイエスは「7回を70倍するまで赦しなさい」と答えられた。
「7」とは完全を表す数字であり、この問答は「完全に完全を重ねて赦しなさい」と読むこともできる。

ペトロの質問は「私たちはどこまで赦すべきか?」と義務を問うているのに対して、
イエスの答えはそうではない。
続けて語られたたとえ話は、自分の1万タラントン(3千億円!)の借金はゆるされたのに、
友だちの100デナリ(50万円)の借金をゆるさなかった、哀れな僕(しもべ)の話である。

「あなた自身がまず赦されている存在であることに気付きなさい。
そうすればその感謝の思いから、自然と人を赦せるようになるのではないか。」
イエスはそのように問いかけられる。

「自分はたくさんの間違いを犯し、でもそれを赦されたからこそ今日まで生きて来れた」、
そのことに気付ける人は、自分もまた人を赦せる人になれるのではないか。




『 内なる本性との闘い 』    マタイによる福音書5:38−42(8月13日 平和主日)
                           
人間とは「こりない生き物」である。
「シマッタ」「もうコリゴリだ!」と思ったことでも、
またそれを繰り返してしまう本性を持っている (例えば「二日酔い」)。
それは、表面では「シマッタ」と思っていても、
心の奥底ではそれを願望しているからかも知れない。

20世紀は2度の世界大戦が行われ、数多くの人の命が犠牲になり、
多くの人々が「戦争はもうコリゴリ」と思ったはずの時代であった。
しかし21世紀を迎えた今なお、この地上から戦火の止む日は訪れない。

愚かなことと知りつつ、それを繰り返してしまう。
それは人間が心の奥底で、実は人と争うことをどこかで願っている...
そんな本性を抱えているからではないだろうか。

ナチスの元戦争指導者・ゲーリングは、戦後法廷でこう証言した。
「戦争を始めるのは簡単だ。
 敵のイメージを作り上げ、危機感を煽ること。
 平和と唱える者には『国益に反する人物』と罰を与えるのだ。
 そうすれば人間は簡単に戦争を始める」。

そして最後に彼はこう付け加えた。
「これはドイツのことだけではない。
 世界中、どこでも当てはまることだ」。
翻って、わが国のことを省みたい。

「私は善人だ」と過信する人のほうが、
「私は悪人だ」と気付いている人よりも、
結果的に人に多大な害悪をもたらすことがある。
自分の中にある邪悪さを見つめ、それを認めることは愉快なことではない。
しかしその愉快ではない作業を通してこそ、
自分の邪悪な部分越えようとする力(文化)も芽生えるのではないか。

「人は争いを好む」 ― そんな本性が自分にもあることを認める。
まずそのことから始める事が大切な気がする。
その上で自らのその本性を乗り越えようとすること。
それが「平和を!」というスローガンを何万回唱えることよりも
具体的な道ではないだろうか。

「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」
「敵を憎むのではなく、敵を愛しなさい」
イエスはそう教えられた。
これは「憎しみを抱いてはならない」という教えなのだろうか。
どうもそうではないような気がする。

自然なまま生きていたのではいつしか人を憎んでしまう。
右の頬を打たれたら、右の頬を殴り返す。やられたらやり返す。
敵対する相手を認めたならば、徹底的に憎み、やっつけようとする。
人間は自然なままでは、そのような本性に流れてしまう部分を持っている。
「そんな人間の本性と闘いなさい」。
先のイエスの教えは、そのようなことを促す言葉なのではないだろうか。

平和を作り出す営みとは、
人間の本性の一部分である「人を憎み、争いを好む」という部分と闘い、
それを乗り越えていく歩みなのではないかと思う。




『「二人が一体となる」ということ 』   マタイによる福音書19:1−12  (9月10日)

今日の聖書の箇所は、「結婚・離縁」についてイエスが教える箇所である。
この手の聖書の言葉を現代の文脈で語るのは難しい。
結婚や離縁というものは人間が作り出した制度であり、
時代や文化が変われば、その「正しさ」も変わるものだからだ。
イエスは決していつの時代にもあてはまる「正解」を教えられたのではない......
そのことを前提にした上で、この箇所について考えたい。

「理由があれば夫が妻を離縁することができるか?」
最初にこのファリサイ派の問いがあった。
「イエスを試そうとして」とあるように、これはひっかけ問題である。
「子孫の繁栄こそ神の祝福」と信じるイスラエルの信仰に照らせば、
「離縁はあってはならない」というのが伝統的価値観であった。
しかし「だから離縁はいけない」と言えば、
「じゃあ、律法で離縁を定めた箇所をどうとらえるのか?」と反論できる。

その律法の箇所とは、具体的には申命記24章である。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、
  気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
                                     (申命記24章1節)

「妻に何か恥ずべきことがあれば」という言葉を、不品行(不倫)だけにとどめずに、
例えば「料理をしていて鍋をこがすこと」も含まれるとする解釈もあったようだ。
そのようにして律法を恣意的に運用しようというふるまいに対して、
イエスは「モーセはあなたたちの心が頑固なので仕方なく認めたのだ」と言われた。
即ちそれは例外的な許可に過ぎないのだ、ということだ。
そうするとイエスは、「離縁はダメだ!」と言っておられるのだろうか。

続けて語られた言葉は意義深いものである。
「人は男と女に造られた。そして二人は一体となる。」
ここには、もともと別々の存在・別々の人格が、誓約によって「ひとつとなる」、
それが結婚というものだ、という考え方が示されている。
自分と同じ部分、自分が許容できる部分だけが結婚の根拠であるならば、
やがて現れる「違い」は、時に離縁の原因ともなる。

しかし、もともと違う者同士が、その違いを認め合い乗り越えあって「共に生きる」。
そのことによって互いの人格的な成長が与えられるのであれば、
それこそが結婚によって与えられる恵みである。

結婚とは「二人が一体となる営み」である。
その言葉に込められた深い意味を、大切に受けとめたい。
そしてそれは、「結婚」のみならず、「共に生きる」ということを目指す私たちにとっても、
とても大切な課題だと言えるのではないだろうか。




『 天国は、ラクダの国 』    マタイによる福音書19:16−25   (9月17日)

ひとりの若者がイエスに質問した。
「永遠の命を得るには何をしたらいいでしょうか?」。
イエスは答えられた。
「全財産を売り払って貧しい人に施しなさい。そして私に従ってきなさい」。
この言葉を聞いて、若者は悲しい顔をしてその場を立ち去った。
「たくさんの財産を持っていたから」と記されている。

その姿を見ながらイエスは言われた。
「財産のある者が天国に行くより、ラクダが針の穴を通る方が易しい」。
これは「それほど困難な、あり得ないことなのだ」ということを表す比喩である。

「しかし...」とそこで考える。物語はそこで終わったのか?
その時はダメだったけど、イエスの言葉がずっと心に残り、
若者のその後の人生に質的変換が起こったとしたら...。
財産の全部を施すことは無理だったとしても、
あのザアカイのように「半分を貧しい人に...」ということが言えたなら...。
イエスはかつてザアカイに言われたのと同じように、
「今日、救いがこの家にも来た」と言われるのではないだろうか。

「救い」とは、善行に対して与えられる「ごほうび」のようなものではないだろう。
イエスの言葉と出会って、人生が質的に変えられること。
それこそが「救い」なのではないか。
この若者がそのような「人生の質的転換」を体験できたのだとしたら、
そのとき、ラクダが一頭「針の穴を通った」ことになる。

それまでの彼の人生は、「つみ重ね」の連続のような人生であった。
良い事をたくさんつみ重ねて「自分が」幸せを得ようとする。
中心にいるのは常に『自分』、『自分』、『自分』...。

「そういう生き方を続けていたのでは、本当の幸せは見えないよ...
むしろ自分から人に幸せを届けようと願って生きてごらん、そこに本当の幸せがあるよ...」。
それがあの若者に対して語られたイエスの答えの意味ではないかと思う。

「つみ重ねる」生き方は、確かに成功すれば達成感を得られる生き方ではある。
しかしそれは同時に失敗の許されない、ある意味で「しんどい生き方」でもある。
けれども逆に、自分が重ねたものを少々崩してもいい、
人に幸せを届けることができればそれでうれしい...
そんな風に感じることができれば、心は楽になるのではないか。

心がラクになる、ラクだ...。
そう、天国はラクダの国だ。
「針の穴を通った」ラクダの住む国なのだ。
                (ちょっと苦しい...。)




『 神さまは不公平? 』    マタイによる福音書20:1−16  (10月8日)

「ぶどう園の労働者のたとえ話」である。
幼い頃、この物語を聞いて、朝から働いても夕方から働いても同じ報酬という内容に、
子ども心ながら、何とも納得いかないものを感じていた。
最後に文句を言ってしまう「朝からの人」の言い分に、共感する思いを抱いていた。

ユダヤ教のラビの話に似たものがあるが、こちらは最後の主人の言い訳が違っている。
  「この夕方から働いた人は、朝から働いた人と同じ分量を短い時間で働いた。
   だから同じ報酬を与えるのは当然である」。
これなら私たちも納得できる。
私たちの意識の中は、すっかり「成果主義」という発想に馴染んでいる部分がある。
そのような意識から見ると、イエスのたとえ話は、時に理不尽に感じるものもある。

このたとえ話の真意をとらえるためには、これが語られた文脈に注目する必要がある。
直前には、イエスに招かれながら、結局財産惜しさにイエスに従えなかった、
あの「富める青年」のエピソードが記されている。
そしてそれに続いて、「私はすべてを捨ててあなたに従いました。
私こそ天国にまっ先に入れるのでしょうか!?」と得意げに語るペトロの姿が記される。
そのペトロの言葉に対して、イエスはこのたとえ話を語られたのである。
そして最後に言われる。「先の者は後になり、後の者は先になる」と。

「朝から働いた労働者」とは長く信仰を抱いてきた人(ペトロのような人)、
「夕方雇われた人」は信仰に入って日の浅い人のこと、ととらえたらどうなるだろうか?
「成果主義」の発想では、前者の方が救いに近いことになる。
しかし神の救いは「成果主義」ではない、
それは神のあわれみによって与えられるものなのだ、というのがイエスのメッセージである。
人の目には不公平に見えるが、それほどに神はひとりひとりの人間を大切に思い、
救いに定めようと思っていて下さる ― そんな神の愛をイエス語っておられるのである。

「私は救われて当然だ」という「朝からの労働者」の視点から見れば、
このたとえは不公平なお話に感じられ、不満のひとつも言いたくなるだろう。
しかし、「自分もまた、夕方から雇われたような存在に過ぎないのではないだろうか?」
そのような謙虚な思いで読むとき、それは感謝すべき恵みとなる。




『 天国の指定席 』     マタイによる福音書20:20−28(10月15日)

人間には定席(じょうせき)を求める心理がある。
礼拝の座席、会議の席、大学の教室の座席等々、
継続的に関わるような集まりや会合では、おのずとそれぞれの座席が決まっていく。
「その方が落ち着く」という人間の心理が作用しているからであろう。

しかし、ではいつも常に指定席が確保されていなければ
人間は満足できないかというと、そうでもない。
チケットを確保せずに野球場に向かうファンがいる。
せっかく行っても、売り切れで入場できないかも知れない。
では、途中不安で仕方ないか?というと、結構ワクワクしたりするものだ。
確約がないからこそ途中が面白い。人生にはそういう局面もある。

ヤコブとヨハネの母はイエスに向かって「あなたが天国に凱旋される時、
二人の息子を右と左に座らせて下さい」と願い出た。
天国の指定席を確保して下さい、という母親の願いである。
イエスは「誰が左右に座るかは、私が決めることではない」と答えられた。
天国の指定席を、新幹線や劇場のチケットを求めるように手に入れることはできない、
それは神さまが決められることなのだ、と。

他の弟子たちは二人のことに腹を立てた。
「よくも出し抜きやがって!」
彼らもまた、実は内心では天国の指定券を求めていたからであろう。

するとイエスは「偉くなりたい者は仕える者に、しもべのようになりなさい」と言われた。
これを「それをすれば、指定席が確保されるよ」と読み違えてはならないだろう。
むしろ「仕えること」それ自体の貴さに気付きなさい、
そして後はすべて神にゆだねなさい、ということだ。

「信仰」とは、天国の座席指定券を手に入れるためのものではない。
むしろそれは、「互いに仕え合うことを喜び合える人生」― そんなドラマを綴った物語への
参加入場券を手に入れるようなものだと言えるのではないだろうか。




『 何をしてほしいのか? 』   マタイによる福音書20:29−34(10月29日)

私たち人間は、日々生きていく中で様々な願望・欲望を抱いて生きている。
しかし冷静に考えてみると、それらの欲望の大半は、
生きる上で「どうしても不可欠なもの」ではない。

また私たちは「自分の願いは自分がよく分かっている」と思っている。
しかし私たちは本当に自分の願いを分かっているだろうか。
それらの願いというものは、実は自分の中から出たオリジナルなものではなく、
周囲や社会からの影響を受けて、
そう願うよう仕向けられているものと言えるのではないだろうか。

エリコの街外れで、ふたりの盲人がイエスに「私たちをあわれんでください」と叫んでいた。
するとイエスは立ち止まり、彼らに「何をして欲しいのか?」と尋ねられた。
このやり取りを読んで私たちは不思議に思う。
「そりゃ見えるようになりたいに違いない、そう願うのが当たり前ではないか」と。
しかしそれは本当に「当たり前」なのだろうか?

「障害者の自己決定権」という言葉を聞いたことがある。
“障害を持った人が何を願っているのか、それは周囲の人が決めることではなく、
その人自身が決めることだ” そういうことを表した言葉である。
イエスはここで「自己決定権」をこの人自身にゆだねられたのだ。

「私は自分の願いを自分でよく分かっている」
「この人が願っていることは、こうであるに違いない」
そんな「決めつけ」が私たちを縛り付けている。
しかしイエスはそのような「決めつけ」をなさらずに、
その人と正面から向き合い「何をして欲しいのか?」と尋ねられる。
私たちはこのような問いを投げかけられた時、何を答えることができるだろうか。

神さまは、私たちに本当に必要なものをご存知であり、それを必ず与えて下さる。
しかしそれは今自分が「願っているもの」とは違うかもしれない…。
そんな信仰を抱きつつ、一方では神さまに信頼し、
一方ではイエスの問いかけに答える歩みを作り出してゆきたい。




『 すべての食べ物に感謝! 』  使徒言行録10:9−16(11月12日)
< 収穫感謝CS合同礼拝 >

皆さんは好き嫌いがありますか?
僕は今では何でも食べられますが、小学生の時は好き嫌いの帝王でした。
特にブタ肉の脂身が嫌いで、給食で食べられなくて
昼休み居残りをさせられたことが何度もありました。

ところがある時、突然ブタの脂身が食べられるようになったのです。
小学4年生の時、劇のセリフで狼役の友だちが
「おぉ、うまそうな子ブタたちじゃ。やわらかな赤身、そしてトロ〜リとした脂身...!」
そう「言うのを聞いて「そうか!あのトローリは、マズいものではなく、
おいしいものだったんや!」そう思って食べてみるとウマかった!
好き嫌いは心(脳)の問題。ほとんど治ります!
体験者が言うのだから、「間違いないっ!」

昔、イエスさまの時代のユダヤ人は、ブタ肉やタコを食べませんでした。
単なる好き嫌いではありません。それらは「汚れている」と考えていたからです。
そしてブタ肉やタコを食べる人(異邦人)たちを、心の中で差別していました。
ペトロさんの心の中にもそんな気持ちがどこかにありました。

しかしある日ペトロさんは夢を見ました。
お腹がすいてた時に天から食べ物が降りてきた。
その中にはブタ肉やタコが入っていました。
「こんなもの食べられません」とペトロが言うと、
「神さまが備えて下さったものを汚れてるなどと言ってはいけません」と天の声が響きました。

それ以来、ペトロさんは何でも食べるようになった。好き嫌いが治ったのです。
よかったね。でも、よかったのはそれだけ?
もっとステキなことがあります。
それはペトロさんの心が、それまでよりも、もっと広くなったということ。
そしてユダヤ人も異邦人も区別なく、
共に生きる世界を目指してペトロさんも生きるようになれたことです。

すべての食べ物は神さまが備えて下さったもの。
そして神さまが与えて下さった食べ物に、清いもの・汚れたものの区別などありません。
そう考えれば、ペトロさんのように心が少し広くなります。

すべての食べ物は私たちの「いのち」を支えてくれる、もうひとつの「いのち」です。
私たちは「いのち」を食べて生きている。
だからすべての食べ物を無駄にせず、感謝する心を持ちたいと思うのです。




『 愛国のかたち 』   マタイによる福音書1:1−17(12月10日)

現在(12/10)、国会で教育基本法の改正の論議が進んでいるが、
これについては様々な問題点が指摘されている。
そのひとつに、いわゆる「愛国心教育」が定められようとしているということが挙げられている。

「何が問題なのか。自分の国を大切にするのは当たり前のことではないか」
そう言われればそれはその通りかも知れない。
しかし「国を愛する」ということは、「上から命じる」ことではないように思う。
例えば父親が「家族を大切にするのは当たり間のことだ。
だから今日から私のことを愛しなさい」と命令されたら、どうだろうか?
(わが家では間違いなく反発に合うに違いない。)

家族を愛するということは、命じられてするものではなく、
自ら沸き起こる感情に基づく行為なのではないか。
そしてそこにはいろんな「愛し方」があるはずだ。
「国を愛する」というのも同じことだと思うのだ。

もうひとつ気になることは、教育基本法の改正を声高に主張する人々の中に、
過去の日本の負の歴史を否定しようとする人が少なからずいることだ。
「小中学生の頃から自虐的な歴史教育がなされることは、
自国に対する誇りを失わせる」ということらしい。

自分のマイナス面はなるべく見たくない、という心理があるのは理解できる。
しかし、自分にとって都合の良い部分だけを拾い上げてなされる、
そんな「自己評価」とはいかなるものだろうか。
それはただの「夜郎自大の愛国心」ではないだろうか。

先の家族の例にたとえてみれば、父親が自分の悪行はすべて棚に上げて、
自分の良い評価だけを並べて「オレのことを愛せ」と子どもたちに迫ったならば、
子どもはそれに従うだろうか。(わが家では総スカンを食らうこと間違いなし。)
むしろ本当の家族愛とは、マイナスの部分もしっかりと見つめつつ、
それでも互いを大切な存在として受け入れ合うというところに存在するものだと思う。

聖書の歴史観は、人間の側の都合によって歴史を書き換えるようなものではない。
神のまなざしのもとではどんなことでも隠し通せるものではない、
だからマイナスの評価を受ける事柄であろうとも、
それをしっかり見つめようとする原則が貫かれているのを感じる。

イエス・キリストの系図に出てくる、
「ダビデはウリヤの妻によりソロモンをもうけ...」という短い言葉の中には、
ダビデの犯した罪ある姿が刻まれている(詳しくはサムエル記下11−12章を参照)。
ユダヤ人にとって歴史上最大のヒーローとも言えるダビデであったとしても、
神の前にはひとりの罪人であることが容赦なく記される。

そんな事柄が救い主の系図に記されているということ。
ここには正も負もひっくるめて自分たちの足跡を見つめ、
そしてそんな民をそれでも救いに定めようとされる神の導きへの信頼が表されている。
それがユダヤ人たちの「愛国のかたち」なのである。

友人の牧師が津和野に観光旅行に行ったとき、地元のボランティアのガイドさんが、
かつて津和野で起こったキリシタン弾圧事件の跡地を案内してくれて、こう言われたという。

  「自分の愛する故郷の人物が、こんなに酷いことをしたのかと思うと、
   ここを案内する度に辛い気持ちになります」。

友人はその言葉の中に、そのガイドさんのふるさとを愛する篤い気持ちを感じ、
「これこそが本当の愛郷心(愛国心)ではないか」と書いていた。

すべてをご存知である神のまなざしのもとに、プラスもマイナスも含めて自分たち足跡を振り返り、
その上で自分たちの歩みをそれでも大切なものとして受けとめる。
そんな「愛国のかたち」を求めていきたい。




『 心の扉を開いて 』  ルカによる福音書2:1−7(12月24日・クリスマス礼拝)

新しい賛美歌作りのネットワークで発表された「宿屋の歌」という歌がある。
マリアとヨセフの二人がどこの宿屋も部屋が一杯で断られる中、
一軒の宿屋が「お部屋はありませんが、馬小屋なら空いてます」と応え、
貧しく暗い場所で救い主が生まれた情景が歌われるのだが、
歌の最後の部分は私たちへの問いかけの言葉となっている。

 『今もずっとイエスさまは泊まるところをお探しです、
  私たちもイエスさまを心開いて迎えましょう...。』

なかなか考えさせられる歌詞である。
今も私たちの心の扉を叩かれるイエス・キリストのことを、私たちは
「もう一杯です。間に合ってます。」と扉を閉ざしてしまうことがありはしないだろうか...。
そんな風に自分を振り返ることは信仰生活において大切なことではないかと思う。

私たちの心はいろんなものですぐに一杯になってしまう。
自慢、虚栄心、欲望、不満、他者への非難、劣等感、嫉妬、自己中心で無関心な意識...。
心が一杯になっている時、私たちは他人のことが見えない。声が聞こえない。
そうして自分のことしか考えられない姿をさらすことによって、自分を貧しくしてしまうのである。

しかしそのような一杯になっている私たちの心の中は、
よくよく見ればすき間だらけなのではないか。
私たちが自分自身に対する下手なプライドから解放されて、
そんな心のすき間を見つめることさえできれば、
その扉を叩くイエスを迎えることができるのではないだろうか。

イエスは扉を叩かれる。
けれども扉を開くのは私たちひとりひとりである。
イエスといえども無理やり扉を開いて入ってこられるわけではない。
私たちが内側から扉を開いて迎えようとする時、イエスのメッセージが心の中に染み渡る...。
「イエスを信じる」とはそういうことだと思うのだ。

私たちも心の扉を開いて、イエス・キリストを迎える者となろう。




『 カウントダウン 』  ヨハネの黙示録22:12−13(12月31日)

他愛も無いTVドラマの最終回に感動してしまうことがある。
主人公の指揮者が卒業で別れゆく仲間たちとの最後の公演で、
涙を流しながら演奏に臨むシーン(『のだめカンタービレ』)を見ながら、
終わりに向かって「今」の事柄に取り組む姿に心を打たれた。

「何事にも終わりがある」そのことを見つめながら、
かけがえのない今を生きる姿には、人を輝かせる「何か」がある。

負けても明日があるプロ野球の試合よりも、
負ければ終わる高校球児たちの全力でプレーする姿が、
見る者に感動を与えることがあるのも同じ理由からであろう。

中学3年生、高校3年生にとっての3学期は、
ひとつひとつの行事が、学校生活での「最後のとき」となる。
そう思うだけで、苦手だった授業やソリの合わなかった先生も、
なぜかいとおしく感じられるようになるものである。

太平洋戦争末期、学徒出陣によって召集された若者たちは、
入隊の日の朝まで、自分の専門の学問に没頭したという。
それは、その勉強をすることが、入隊後何かの役に立つからではない。
「こんな風に好きな勉強ができるのも、これが最後かも知れない...」
そんな思いが彼らを学問へと向かわせる原動力であった。
とても悲しい逸話であり、二度と繰り返してはならないことだと思うが、
「学ぶ」という行為に関してのみ言えば、
今の学生たちにも見習って欲しいような事柄である。

逆に、私たちが「何事にも終わりがある」ということを忘れてしまうとき、
日常の歩みは単調な事柄の繰り返しとなってしまう。
私たちは毎日の出来事に退屈を感じ、飽きてしまい、
何事においても不平・不満をまっ先に抱くようになってしまう。

「昨日から今日、今日から明日へ、時間は当たり前のように流れてゆく…」
そういう受けとめ方の中では、
私たちは「今のかけがえのなさ」に気付くこともできない。

聖書の歴史観は、「はじめがあり終わりがある」、
「アルファでありオメガである」という価値観に貫かれている。
天地創造のはじめからヨハネの黙示録の終末に向けて、
一直線に流れていく時の流れである。

その聖書が全巻を通して語るメッセージは、
「終わりを見つめて生きなさい。
限りある今の時を生きていることに感謝をしなさい」というものだろう。

中世の修道士たちは、
「メメント・モリ(死を覚えよ)」というあいさつを交し合い、
「限りあるいのちを大切に、今日一日を大切に生きよう」
そんな思いを確認し合っていたという。

時には、日常の生活からせめて心だけでもスッと離れ、
終わりの光に照らしながら今を見つめる。
それも私たちにとって、大切な営みだ。

一年の終わりの日、カウントダウンの日に、
改めてそのことを心に刻みたい。

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